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Akira Sugiharaさんの My best 2021

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東京都

中華料理

Akira Sugihara

理想はいつだって煌めいて 敗北はどこか懐かしい 「運命」というには大袈裟だが、ある本があるお店に導いてくれた事は確かだった。 5日間とは言えせっかくの正月休みなので、正月用の本をまあまあ買ってきて枕元に積んでおいた。 当たりもしない宝くじに大枚をはたくよりは、いくらか建設的だろうという理由だけで、冬のボーナスが入るとそうしている。 2020年は敬愛する李登輝元台湾総統が他界され、自然と書店で台湾史関連の棚を詮索した。 初めて台湾を訪れたのは98年の夏だったと思う。 大学の卒業単位にも目処がついて、ほとんどバックパッカーの装いで台北からベトナムに入る小旅行を実行した。 当時の台湾には「トウサン世代」と呼ばれる日本統治時代を知る高齢者がまだ沢山いた。 鴨肉料理が有名な屋台みたいな店で、ビールはないのかなぁ?と独り言を呟いたら、ある老人が流暢な日本語で「残念ながら、この店はお酒は置いてないのですよ」とニコニコして教えてくれた。 それまで「日本はアジアを戦争に巻き込み侵略した」という自虐史観を植え付けられていたので、アジアの国の老人から好意的に出迎えられた事に驚いたのだった。 台湾は親日国である。 下関条約以降、同じ日本統治時代を経験した、かの半島とは大違いなのは何故か? この時から、台湾に関する書籍にあたるのがボクのライフワークの一つになった。 結論を急ぐと、池袋にある「新珍味」というお店は、台湾では知らない人はいない老台湾人革命家・史明が作ったお店である。 1952年から1993年まで、表向きは町中華の主人を装いつつ、台湾独立という革命を画策していた。 実際に店の5階で自ら作った爆弾で、台湾の軍用列車爆破に成功している。 ハッキリ言ってしまえば「新珍味」は、革命のためのテロリスト養成所の役割を担っていた。 どんな理由であれ、暴力は良くないという意見があるだろうが、そうせざるを得ない時代があったという事を知るべきである。 大切なものを守るために闘うという姿勢は「鬼滅の刃」の煉獄杏寿郎にも通ずるところがある。 まだまだ書き足りないが、この本、是非読んでいただきたい! 革命家:史明(しめい) 本名:施朝暉。台湾独立運動家、教育家、歴史学者。1918年台湾台北出身。早稲田大学政治経済学部在学中、社会主義思想に目覚め、1942年の卒業と同時に中国へ。中国共産党の情報工作員としてスパイ活動に従事し、1946年以降、党幹部養成校の華北連合大学、華北軍政大学で学ぶ。鄧小平の命で捕虜の台湾人兵部隊「台湾隊」を組織。1949年、共産党の実態に絶望し脱走、台湾へ帰国。1950年に「台湾独立革命武装隊」を立ち上げ蒋介石暗殺を計画するが失敗し、1952年に日本へ亡命。以後40年間、東京池袋で中華料理店「新珍味」を営みながら「独立台湾会」を統率し、台湾独立のための地下工作を物心両面で支援。1962年に台湾市民の視点で書かれた初の台湾通史『台湾人四百年史』を上梓。国民党政権のブラックリストに載る最後の台湾人となるが、1993年帰国。台湾全域で精力的に独立のための啓蒙活動を行い、2001年「史明教育基金会」設立。過去の総統選では民主進歩党の陳水扁や蔡英文を支援し、2016年、総統府資政(総統上級顧問)に就任。 2019年9月20日没。享年100歳。

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居酒屋

Akira Sugihara

新年明けましてナニコレ食堂! ナニコレ食堂が本気で好きである。 店主が旧知の仲だからとか、そんな事には関係がない。 料理好きのお姉さんの家でホームパーティーをしているような居心地の良さがある。 その肝心の店主のお姉さんは、アホなオリジナルTシャツを着ていて、非常にゆるいw そして、基本イミフw アホなのは、店主のTシャツだけではない! 豊洲で仕入れたチーズの盛り合わせが、この量で400円とかバカでしょ! もちろん、ちゃんとAOCとかよ? チーズ専門店「チーズ王国」を展開する久田グループの卸部門、KOTOBUKIフーズインターナショナルの厳選されたチーズ! 築地場内時代からボクも買ってたから分かるけど、とてもじゃないけど、400円で出せる訳がない! サービス価格というより、慈善事業! 相変わらず、牛もつ煮は激うま! おにぎりからは亀頭が飛び出てる! 何が出てくるか知らずに頼んだ「にんにくセレナーデ」@300円は、目玉焼きが乗ったニンニク醤油炒飯! 激うま! メニュー名とメニューのイラストの相関関係を考えると、こっちの頭がおかしくなるから、あまり考えない方がいいですw カリカリベーコンを頼んだら、カリカリに焼いたベーコンが出てきた。 それはそのまんまかいっ! チーズも料理も安すぎる。 キンミヤ飲みすぎる。 ナニコレ食堂好きすぎる!

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とんかつ

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まず初めに、毒蝮三太夫が訪れている店には確実に良店が多い。 山本益博が雑誌で紹介した店より、毒蝮三太夫が実際に訪れている店の方が信頼できる。 毒蝮は大阪で生まれ、中延で育ち、青年期は浅草で過ごしている。そんな毒蝮の舌がグルメに育たない訳がない。 伊達に「ウルトラマン」のアラシ隊員と「笑点」の二代目座布団運びを同時にこなしてはいないのだ! まる一は老舗とんかつの最高峰と呼び名高い大森の「丸一」の系列である。 総本山大森丸一の先代の元に修行し、独立。 実は蒲田丸一より開店が数年早い。 ハッキリ申し上げて、今まで近所なのに未訪問だった事を恥じた。 全校生徒の前で総練習時間8分のロボットダンスを披露するぐらい恥ずかしい。 上ロースカツ(1760円)+ごはんセット(450円)! アラブの石油王であっても、とんかつランチに2210円も出すのは勇気がいる事だろう。 でも勇気を出して食べてみてもらいたい。 絶対に後悔はさせまい! 上野とんかつ御三家と全く遜色ない。 むしろ、上野とんかつ御四家に入れたいぐらいだ! 最近流行りの真っ白い衣ではなく、きつね色に揚がったイメージ通りのとんかつ! 中はギリギリのパールピンクの火加減! キャベツの千切りの横に添えられたキャベツの塩揉みも旨い!ぬか漬けもサイコー! 昭和な店内に掛かるポール・モリア的なイージーリスニングもサイコー!

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とんかつ

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三好弥@東日暮里! 参りました! その安さとボリューム、そしてしっかり美味しい! 三好弥は東京を代表する町の飾らない洋食店であった。 漫画「はいからさんが通る」の舞台となったのは、大正期の小石川区柳町周辺である。 (当時この地に開校した跡見学園がモデルと言われている) 現在の文京区小石川一丁目から白山駅の辺りと思われる。この辺りは戦前は三業地として栄えていた一面もあった。 白山通りの東側には、日露戦争(1904年)の頃から、銘酒屋(めいしや)や揚弓場(ようきゅうじょう)が沢山できるようになる。 銘酒屋とは、酌婦がいてそのまま店に上がって性的サービスをする店である。 揚弓場とは、読んで時の如く弓矢で的に当てて遊ぶ場所だが、これも店に女性がいてやはりサービスをする。 揚弓場は矢場(やば)とも言われ、「やばい」という言葉の語源となったと言われる。 「はいからさんが通る」と時同じくして、大正8年にその小石川に誕生したのが「三好弥」の第一号店であった。 初代店主は愛知県高浜町(現・高浜市)から上京し、神田の洋食店で修業をした長谷川好弥氏。 故郷の三河と自身の名前を冠して店名を「三好弥」としたのが始まりという。 当時、洋食と言えばまさに「はいから」で贅沢なものだったが、三好弥は「実用洋食」を謳う比較的安価で庶民にも手が届く洋食店であった。 東日暮里の三好弥の店主も、やはり愛知県高浜市から昭和30年代初頭に上京し、芝大門の三好弥で修行の後、この地に暖簾分けを許された。 暖簾分けを許されるには最低10年の修業が必須という厳しい条件があったらしいが、それでも昭和40~50年代の最盛期には都内を中心に約90店の三好弥が存在したと言われている。 ネットや電話帳の類いで調べてみると、現在確認できる「三好弥」はだいたい20店くらいのようである。 浅草、立石、押上(錦糸町)、大塚、日暮里、人形町、神楽坂、新富町、中野… かつてまたは現存する三好弥は、ほぼ三業地があった場所に隣接し、洋食、とんかつ、中華と主軸に置く料理に若干の違いはあれど、ほぼ「実用洋食」の流れを汲み、リーズナブルで満足なボリュームで愛されるお店が多い。 「実用洋食」と聞いて、清澄白河の「七福」を思い出した人は、相当の実用洋食マニアである。 調べてみると、「七福」の女将さんはやはり愛知県高浜市の出身であった。 幼くしてご両親を亡くし、父親の実家に引き取られ、以来、おじである神谷修一氏が親代わりになった。 神谷修一氏は、三好弥創業者である長谷川好弥氏の妹と結婚。そして、西新橋で三好弥を開業している。 東京の洋食店の主流となるルーツは、築地から上野に移転した「精養軒」で間違いはない筈だが、そのルートとは別に、三好弥という重要な系譜がある事は、どうやら間違いないようだ。

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東京都

居酒屋

Akira Sugihara

錦鯉のツッコミの方に似てるって言われます。 にしきや@千駄木! 谷根千の名店中の名店! めちゃくちゃ久しぶりに来たが、やっぱりいい店だ。 聞いたら間もなく創業70年になるらしい。 なんと表現すればいいのだろう? 酒場や居酒屋というには、凛としている。 かと言って、割烹とか小料理屋と言うには大衆的な価格と安堵感がある。 酎ハイが300円と安価ながら、しっかり焼酎が濃い! そうした安価な大衆店と思わせながら、奈良・久保本家の「生酛のどぶ」なんかがあって、ちゃんと燗にしてくれたりするから、嬉しくて仕方ない。 生酛のどぶはにごり酒である。 ある時代から日本酒は、米を必要以上に磨きすぎ、香水のような吟醸香をプンプンさせ、キンキンに冷やして、水のように飲みやすいだとか、フルーティだとか言って、一部のおバカさんがはしゃぐようになってしまった。 だがしかし、日本酒は、いや、日本酒こそがメシに寄り添う食中酒の最たるものであったはずである。 生酛のどぶは、米そのものの味がする。そして、驚くほどになんにでも合う。 もつ焼きや焼鳥、煮込みにも刺身にも合う。 個人的にはタイ料理のヤムウンセン(春雨サラダ)やソムタム(タイ風青パパイヤのサラダ)に合わせるのが好きだ。 何軒目かの訪問だったため、あまり種類が食べられなかったが、まずは酎ハイをお願いした。 大きめにカットされたシバ漬けがお通しで、甘酸っぱいシバ漬けが酎ハイによく合う。 そして、名物の煮込み。 しっかり煮込まれた酒に合うタイプだ。 もう一品食べたくなって、白魚のお刺身と冒頭の生酛のどぶを燗にしてもらった。 かつて大川(隅田川)でも採れた白魚は、江戸時代には徳川家康にも献上されていた高級魚である。 網にかかって水揚げされるとすぐに死んでしまうほど繊細ということもあって、あまり市場に出回らない。というより1950年代頃から河川の汚染で隅田川からは姿を消してしまったらしい。 白魚は透き通っていて、脳や内臓が見える。 その脳の形が三葉葵(徳川家の家紋)に見えることから、徳川家では大変大事にされたという。 白魚の透明感のある白と、白く濁った生酛のどぶ。白魚からうっすら感じる塩味と苦味が、生酛のどぶのクリーミーな甘味で中和する。 三代目三遊亭金馬は大の釣り好きで知られ、「江戸前の釣り」という本の中で、古き良き昭和30年代の東京の釣りを克明に記している。 東京湾奥の青ギスの脚立釣り、隅田川支流のタナゴ釣り… 今では東京の海や河川から絶滅もしくは絶滅危惧種になってしまった。 一度失うと取り戻す事は困難になる。 ボクも家康のように隅田川の白魚が食べたかった。

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寿司

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太田鮨@人形町! 普段は大行列店であるが、コロナ禍により最近は空いているとの情報を得て行ってみた。 カウンター8席のみ。 カウンターに座ると、ネタの好き嫌いとシャリの好みの量を聞かれる。 普通(かなりデカイ。普通の倍くらい。) 小さめ(デカイ) 小(やや多め) 極小(一般的寿司店の量) 極々小(少なめ) との事。 迷わず普通でお願いする。 ヒラメ 小肌 かんぱち マグロ マグロ いくら かに ホタテ 玉子太巻 鉄火巻(かんぴょう巻に変更できる) マグロはやや中トロ寄りの赤身で、ネタとシャリの間に中落ちが挟まっている。間に挟まれた中落ちがトロ感を増幅させてくれる。 名物は玉子の太巻と鉄火巻き。 出汁が染みた甘めの玉子が旨い。 鉄火巻きのマグロは完全なる赤身だが、柔らかいヒレ肉を食べているような満足感がある。 江戸時代の寿司は、一個がおにぎり大の大きさで、包丁で二つに切ってから提供されていたと聞く。 それが寿司屋で二貫づつ出てくる由来になったとか。 太田鮨の寿司は、まさにそのぐらいのインパクトがある大きさの寿司であった。 ボクはもともと寿司は箸を使わず手で食べるのだが、太田鮨はそもそも箸の提供がない。 それは大きすぎて箸だと食べにくいからだろう。 約40分間の寿司劇場。 〆て3000円。 おすすめ!

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天ぷら

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天ぷら徳仙@末広町(上野三丁目)! 最後に訪れてから20年以上は経つかも知れない。 店の前を通りお品書きを眺めてみたら、思っていたより随分とリーズナブルだったので久しぶりに入ってみた。 ビートたけしの師匠である深見千三郎や欽ちゃんなどの浅草芸人が贔屓にした事で知られる浅草の徳仙(1899年創業)の暖簾分けとの事。 こちらの徳仙も1936年創業の老舗である。 最近、旬の穴子にハマっている。 「江戸前 活 穴子丼」@1200円に迷わず決めた! 江戸前モノである、且つ、活きであるのも穴子においては非常に重要な要素である。 まず、なぜ「活き」にこだわるかというと、死んだ穴子はニオイが出るから。つまり臭い。 穴子のようにニョロニョロした魚は表皮にうろこがない。その代わりにネバネバの粘液が体を覆いつくし、このネバネバが死ぬと強い臭いを発するのである。 そして「活き」で入手できるという事は、市場から近い場所で水揚げされる事が有利になる。 つまり、江戸前=東京湾産だ。 東京オリンピックのトライアスロン会場である東京湾奥の水質問題が取り沙汰されているが、住んでいる魚自体には影響はない。 羽田沖や小柴沖の穴子は良質なプランクトンが豊富で、それらを食べている小魚や甲殻類を食べて育つので極上に旨い! 徳仙の「江戸前 活 穴子丼」は穴子二本分! 「活け」であった事のしるしに、穴子の骨の素揚げが冠のように丼の頂上へ捧げられる。 真っ黒い老舗ならではの甘辛いタレと甘い湯気に包まれた穴子にかぶりつくと、外はサクサクっ、中はふんわりとして、江戸前穴子特有の滋味が口いっぱいに広がる。 旨しっ! そして特筆すべきは別盛野菜天盛合せ@150円である。 パプリカ、舞茸、ベビーコーン、玉ねぎ、蓮根がサクっと揚がって150円とは、驚異的なリーズナブルさ! これだけで瓶ビールを飲みにくる価値アリ! ぬか漬けも美味い!

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東京都

その他

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食堂 清月@入谷金美館通り! 大正小学校のすぐ隣にある食堂で、創業は昭和19年(1944年)との事。 食堂というより和菓子屋さんのような小粋な雰囲気が漂う。 金美館とは、大正時代にはじまり昭和20年代には都内に約20館を誇った映画館チェーンであり、後に川崎のチッタエンターテイメントの前身となる。 映画「ニューシネマパラダイス」と同じく、庶民の唯一の娯楽として映画館が存在した事を証明するように、金美館がなくなった今も「金美館通り」という通りの名前が残った。 食堂清月は、いわゆる大衆食堂とは異する。 安価なものをたらふく食べさせるというより、大人の和定食をしっかり食べさせてくれる食堂だ。 無農薬、無化学肥料、自家採種、固定種野菜を自然栽培で育てた野菜を使う。 知る人ぞ知るアジフライの名店であるが、あまりメディアに出たがらない性分なのか、客は地元の人ばかり。 ビールはエビスで、置いてある日本酒も純米系でこだわりが垣間見える。 一見なにげない切り干し大根やなめ茸も味が濃い。味付けが濃いという訳ではなく、素材そのものの風味が濃い。 良く噛んでじっくり味を聞き、飲み込んだ時にふわっと旨味が拡がる感じ。 一つ一つ丁寧に吟味した仕事によるものと思う。 まさに大人の和定食。 近くの鷲神社から熊手を抱えて歩く商売人が、この店の存在に気づかず通り過ぎていく事がもどかしい。

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炭火うな富士@日比谷OKUROJI! 名古屋で人気のビブグルマン店が東京初進出を果たした! 名古屋では3時間待ちの行列店らしいので、開店の11時に予約をしていった。 肝入り上うなぎ丼(限定) @6900円! ちょっとしたフレンチのランチコースが食べられる値段だが、納得のうなぎの量だ! いわゆる「まむし」と呼ばれるご飯とご飯の間にも、しっかり鰻が入っている。 また、名物の肝焼きも大粒で旨い! こちら関西風の鰻で、蒸しは無し。 表面がパリっとした食感で、ダイレクトに鰻の脂と旨味が楽しめる。 俗に関東では鰻を背から開く。 その理由は江戸の町には侍が多く「切腹」を連想させる腹開きは縁起が悪いとされたからとか。 逆に関西は商人文化だったので「腹を割って話す」ということを意味する腹開きが好まれたとされる。 上記はよくモノの本などに決まって書かれる蘊蓄の類いだが、納得が行くような行かないような微妙さがつきまとう。 1700年代の江戸の町は全国から集まった単身赴任者が多く、外食産業は盛況だった。だが、腕のよい料理人の数が需要に追い付かなかったというのが実情であったらしい。 つまり、比較的難易度の高い腹開きができる職人が限られていたという説だ。 また、江戸では大量の鰻を一度にさばく必要があった事から、一度直火焼きした後に蒸す事で、提供時間を短縮したという話もある。 蒸すと腹側の脂が抜けて身が縮み過ぎるので、背開きにしたというのも、どこかの文献で読んだ記憶がある。 関東風と関西風の境界線は諸説あるが、浜松から諏訪湖に至る天竜川沿いといわれている。 実際、昔「タモリ倶楽部」で、駅の立ち食いそばのどこから関西風の汁になるかという実験をやっていたが、三島から浜松あたりで関東風と関西風が混じり合い、浜松より以西で確実に関西風に変わったとあった。 いわゆる「名古屋メシ」と呼ばれる名古屋中部地区独特の食文化は、こうした西と東の文化の中間地点だからこそ生まれたと思えば、なかなか興味深く面白い。

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東京都

カレー

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ワッカワッカ〜♪ させてよ〜♪ Wacca@八丁堀! カレーで太りたいと豪語する千葉好き女子のお誘いで行ってきた。 カレーの上に刺身が乗っちゃってる衝撃なヴィジュアルで有名なお店。実は念願の初訪問である。 正直、関西初の一連のスパイスカレーブームというものに、憧れと一目置く熱視線と同時に、眉ツバ的な懐疑心も持ち合わせていた。 自らもスパイス料理を作るボク自身の経験から、スパイスやハーブを用いると割と簡単に美味しいものができてしまう事を知っているからだ。 例えば、スーパーで買ってきた鶏もも肉に塩と胡椒を振り、フライパンで焼く。 これで十分に美味しい。 そこにクミンを加えてみる。 一気にエキゾチックな香りが漂う。 そこにさらにターメリックを一振り。 黄色く色づきヴィジュアル的にも上がる。 ほんのり苦味も加わりそれっぽい。 そして、チリパウダー! ピリっとした辛味が加わり、ビールなどアルコール類との相性もグッと引き立つ。 皿に盛る際にパクチーでも散らせば、立派なスパイス料理の完成である。 というように、知識がなくともたった数種のスパイスをフィーリングで加えるだけで美味しいスパイス料理はできてしまうのだ。 つまり、マイクロフォンの発明によりオペラからポップスに声楽法が変貌したように、ハーブ・スパイスを得た事による単純な料理の多様性を過大評価しているに過ぎないのではないか?と思ったのである。 ゆえに、本来インドやスリランカに見られるアーユルヴェーダ的な考え方から生じた6つの味(ラサ)が軽視されはじめているのではないか?とさえ、過剰に反応してしまったのである。 しかしながら、全くもってWaccaにおいてはそれは杞憂に終わった。 アーユルヴェーダにおけるラサは当たり前に、その上で中国・陝西省の咸陽市周辺に見られる「油潑扯麵」などへの周辺国のスパイス料理の造詣も深い。 聖徳太子の時代にはすでに本格的なインド料理が作れるだけのスパイス類が日本に入ってきていた事は間違いのない事実である。 しかし、四季折々の植物や野菜があり、四方八方を海に囲まれ新鮮な魚介が豊富にとれ、獣肉を積極的に摂取しなかった日本においては、料理のスパイスとしての使用はごく限られ、漢方薬の一種としての性格の方が強くなった。 Waccaの主人があえてカレーに刺身を用いたのは、日本人としてのアイデンティティと、あらゆるスパイス料理を咀嚼した上でのフュージョン料理としての位置づけなのだろうと思う。