【相変わらずイナキ・エズピタルトは最高だった。】 インスタにシャトーブリアンの写真をアップしたら、早速二人のシェフからメッセージがあった。一人はトレフルの井上さん、もう一人は料理人のYamatoさん。 二人とも、イナキの料理に魅せられその厨房で働いていた中の人だ。井上さんは写真を見て”かっこいい。そうあるべきだなと打ちのめされた気分です”と言い、Yamatoさんは”イカの料理を見て久しぶりにゾッとした”と言った。イナキが何をしているかをよく知っている二人。シャトーブリアンの料理は非常に手の込んだことをしているのに、それを表に見せない。謎の構成要素を持って美味い一皿が完成されていることを、二人はよく知っている。その日に入荷した材料を使い毎日新しい料理を作り出していく即興性と、その完成度の高さ。井上さんから1週間前のシャトーブリアンで食べた人の写真が送られてきた。それは私が食べたものと完全に異なる料理と盛り付けと構成で笑ってしまった。 2回目のシャトーブリアンは以前よりも増して、凄みと驚きと、楽しさで満ち溢れていた。 「正直そういうお店だから全部が全部、100点の皿というわけではない。微妙だなと思う皿もあるけれど、この店がすごいのは、そういうネガティブを吹き飛ばす傑出した皿が、産み出され存在することだ」と井上さんはいう。私もそう思う。 そっけないパヴォの実を撒いた濃厚なグージェールと、アイコンであるセビーチェの強烈な酸味と辛味。いつものシャトーブリアンの始まりだ。次に来た羊とネギの春巻きは、やたらと塩辛くてちょっと大丈夫か?と心配になるが、後から考えてみればここのバランスは何か哲学的な意図ではなかったかと思わずにはいられない。 この後の料理の全てが、恐ろしく完璧に整えられていた。薄くスライスしたマッシュルームに隠されたカニからが本番だった。ダックのブロードとラビオリ。イカの下に敷かれたチョリソのジュ。食べ進めるにつれてその複雑さと多様なテクニック、一皿に詰め込まれた多量な素材を解き明かすことすら困難だ。 この日のボラとアーティチョークの皿はまさにその、傑出した皿だった。それは以前Yamatoさんが作った”人妻の火入れ”と似ている。ミキュイされた魚とアーティチョークのテクスチャーが一致していて、とんでもない一皿だった。こんな魚料理は食べたことがない。この皿のキラキラしたソースはなんですか、とYamatoさんに聞かれ、メニューがなくなっててわからないけど多分柑橘系、と答えたら”きっとそれは昼下がりの麗らかな木漏れ日だ、と彼は答えた。 メインは鶏、モモと胸と肝。アンディーブなどが、どう調理したかわからないパリパリしたレタスに包まれ隠されている。甘くやわからく、奥が深い。上質なジュに、もう一つ粘度を高めたソースが隠されていた。なんと幸せな一皿だろうか、今フランスで最も印象的なのは素材の味の強さだ。それは野菜も肉も、である。故に、過剰な味付けを必要としない。シンプルに、構成要素の巧さで美味いを引き出す料理が、イナキの料理、でもあるだろう。 デザートはフワッフワのムース。最後に卵黄をキャラメリゼしたプリンの再構築のシグニチャー。ブラッドオレンジにはインドのフェンネルシードがまぶされていて、最後の最後まで、ああ、本当に。素晴らしいと。 これは、ただ美味しいと食べる料理とはもう違うベクトルにあって、美味しいのその先、なぜ美味しいのかという謎かけと哲学であるのだ。 素材のどの部分を見せるのか。そこから引き出すのはどう言った味わいか。そういうものを構成して一つにまとめ上げる料理。 「材料は決まっている。 まだ熟れきっていない早いトマトの魅力をどう伝えるか。 そう。そこに焦点は行きがちだが、違う。 何を食べさせたいか。トマト?? そんなことではない。それはもう時代遅れの料理であり存在価値がパリにはない。」とYamatoさんは言う。 例えばそう言った発想から生み出されていく料理である。本当に、素晴らしい。革新的料理として取り上げられたこのレストランは、さらに進化していたことに驚いた。相変わらず、イナキエズピタルトの料理は最高だ。 最後にシェフと少し話をした。Yamatoさんがよろしく言ってましたよ、と言ったら”奴のベビーは元気かい?”と優しく笑った。 やはりこのレストランは、最高だ。たとえ万人に受けなくとも。愛すべきチームがあって、自由で、楽しませようという力で満ちている。 驚きの一皿にまた出会うため、私はまたこのお店の扉を開くのだろう。