「三月」 「雨」 タクシーの後部座席から 降り続く銀斜線を眺めていた。 住宅街の中心を走っているのは あからさまだった。 故に過ぎゆく誰しも、私が フランス料理店に向かっているとは 思わないだろう。 車は家に挟まれた小道に入り 高台を目指した。 頂上から数メートル下ったところで 車は止まり、降り立つと 歳を重ねた邸宅があった。 【 颯香亭 そうかてい 】 玄関を開けると、和風建築の美学が 浮流する造りに懐かしさを感じる。 廊下を進みシェフと会話ができる テーブル席へと通された。 個室であればシェフと会うことは なかっただろう。 そう思いながら 席に座り内観を楽しむ。 中庭にある植木の葉から滴る 雨粒を数える余裕が 私にはあった。 軽やかに流れるジャズは 食後の惰性を匂わせ もはや私の心は中立 だった。 ⚪︎アミューズ 二種 ・枝に似せた菓子 糸島産の小麦粉で生地を作り フォアグラのクリームを乗せ 朝倉のタデを添える。 童話にでてくる甘さある枝を 食しているような そんな味覚だ。 素晴らしい。 ・雲丹サンド 雲丹ムースを きな粉で作った生地で挟む。 ムースの柔らかさが広がると パリッとした甘い生地が口の中で砕け 苦さと甘さのバランサーの役目を担う。 絶妙なアミューズ。 ⚪︎冷前菜 海老、朝倉のカブ 糸島のラディッシュ これらをスープ状にし固形化 されたもの。 和のテイストを強調している。 生け花のように華やかで 美しき料理。 ⚪︎温前菜 自然薯のフラン、朝倉の菜の花 天草のハマグリらをまろやかに 高温で仕立てたスープ。 臨場感が表現されている 風味深い品。 素晴らしい。 ⚪︎冷前菜 天草の水イカ 野菜の盛り合せに 佐賀産のアスパラ 糸島のナスタチュームを使う。 森そのものを 食しているかのような 感覚になる。 新鮮より更に上級にある。 もはや、ライブ。 ⚪︎魚料理 甘いクリームソースが 天草のサワラを包み 宗像の美を放つフェンネルが 添えられている。 上質な鶏肉を思わせ 繊細過ぎる香りが広がる。 気品がある。 ⚪︎メイン 焼かれた希少種、ベジョータ種の イベリコ豚にケール、島らっきょうが 背に重なる。 今までのコンセプトとは全く異なる。 一転してエキゾチック。 潔い大花火を見ているような食感。 シェフの本領に驚きを隠せない。 ⚪︎デザート 大きなイチゴの下には 八女茶のペーストが敷かれ 側に特別なクリームが 添えられている。 全てを液体窒素で 固め香りや甘味が凝縮 されている。 アミューズから魚料理までは フジ子・ヘミングの 「春の宵」のように繊細で優美。 花に例えるなら 穏やかで暖かい春風に揺れる 木漏れ日が落ちた 「アネモネ」 メインは ラヴェルの 「ボレロ」のように 目が覚めるほどの圧倒的な 力強いフィナーレを演じる。 春に咲く妖艶な ラナンキュラスの 美しさもある。 デザートは 向日葵畑で微笑む 少女のように 切なく可憐だ。 テーブルから目に入る棚には 世界中の料理の文献が並んでいた。 「料理を」 「愛しているのですね」 私は瞼を閉じ 想像してみた。 私がいただいた食材は 原形のまま産地で春を待っていた。 食べごろを迎えた彼らは、いつしか とても優しく柔らかで透明な糸に 包まれ、この場所へやってきた。 そして、生を与えられた。 作るでもなく。 飾るでもない。 生かす。 シェフの料理は 【 生きている 】 自然から摘み取り テーブルという 自然へとリリースする。 食す者は、全ては一つに 繋がっているのではと 感じてしまう。 【Cuisine francaise très élégante】 「三月」 「雨」 タクシーの中に私はいる。 近いようで遠い存在だった 颯香亭へと 向かっている。 静止した感情で外を見ていた。 車窓にぶつかる無数の雨は この小さな嵐が終わると 春がやってくると 私に伝えているようだった。 そして 私が この文を書き終え 電子の世界に 放つころ 街中では 桜が咲き誇り 春が満ち溢れている ことだろう。