No.0777【ブラジレイロ/博多区店屋町】 ( ゚∀゚){ 777投稿目!!!!!!! ) 博多最古の喫茶店「ブラジレイロ」さんでアイスコーヒーを飲みながらこのリポート書いている。 福岡市内で「喫茶店」と言ったらまず思い浮かぶ店だろう。 その前身の創業は1934年(昭和9年)。戦前のことである。 1930年(昭和5年)、日本人移民の多かったブラジル・サンパウロ州のコーヒー局が当時はまだ珍しかったコーヒーのプロモーションと代理店を兼ねた「カフェ・ブラジレイロ」(本店)を大阪・梅田新道にオープンさせた。同年には東京・銀座に、その翌年には神戸・三宮と京都・四条河原町に次々と支店を展開した。そしてその3年後に博多に出来た5店目が現在の店屋町にある「ブラジレイロ」の源流である。所謂全国チェーンのカフェの「博多支店」だったのである。店内には当時のエンブレムが飾ってある。 創業当初は店屋町ではなく那珂川にかかる西大橋の東中洲側に店を構えた。当時としては非常にモダンな総ガラス張りの白い外観で中は吹き抜け。ジャズのレコードが流れ、キャパは250席という広い店内。鯉や金魚が泳ぐ噴水もあったそうだ。古い写真を見ても喫茶店ではなくウェディングレストランやセミナーホールを想像してしまう。さぞや当時の博多っ子には自慢だったことだろう。現在この場所には九州文壇の取り纏め役であった小説家・詩人の原田種夫の記念碑と「人」というモニュメントがある。「人間」という詩碑と共に「思い出の記」という石碑があり、当時のブラジレイロの様子や、師事した北原白秋を迎えて出版記念会を行ったエピソードが刻まれてある。原田種夫や若松出身の小説家・火野葦平、「ドグラ・マグラ」などの探偵小説で知られる夢野久作など当時の地元文豪・文化人の溜まり場でもあったそうだ。 しかし時代は戦争へ。空襲の激しくなった1944年(昭和19年)、建物強制疎開によって東中洲のブラジレイロは跡形もなく取り壊されてしまう。全国展開していたブラジレイロも解散することになる。 終戦の翌年、1946年(昭和21年)に最後の支配人だった先代の中村安衛氏(2代目 中村好忠氏[現 福岡市喫茶組合理事長]の父)が奥堂で「レイロ」として再興。コーヒーに飢えた博多の人々は長い行列を作ったそうだ。そして1951年(昭和26年)に店屋町に正式に「ブラジレイロ」として新店舗を開き現在に至るのである。 私のブラジレイロとの出会いは6歳の頃だったと思う。意味も分かって無いくせにガンダムというだけで公開されたばかりの「めぐりあい宇宙」を父親にねだって中洲の映画館まで連れて行ってもらった帰りだった。 父親は思い出したかのように「レイロにでも久々に行くか」と言ってこの店に寄ったのだった。アイスコーヒーを飲みながらこの店に通った文豪の事やら博多の歴史のウンチクやらを語っていたが…ガンダム以上に小学校低学年の私には理解できなかった(笑) ちゅうことで前置きが非常に長くなってしまうのは毎度の事なので気にせず本題行こう。 ■ミンチカツレツ(950円) 本来ならば自家焙煎コーヒーの事を書くべきなのだろうが、今回は私の愛して止まない洋食メニューをピックアップさせて頂く。 宮崎さんなんか2回もリポートしとるけんね(笑) 予約必須の1日15食限定の一番人気のメニュー。 思わず「ノックオン‼」とホイッスルを吹きたくなるラグビーボール形状のミンチカツレツ。ビジュアルでも楽しませてくれる。どうやったらこの形のまま揚げることができるのか?いつも気になってしょうがない(笑) クリスピーでサクサクな衣に包まれており、両端はカリッとしていて中央に近づくほどフワっとした食感。中にはギッシリと詰まった鶏と豚の合挽きミンチと玉葱。ナイフを入れると肉汁がほとばしる。至ってシンプルそうに見えて芳醇なデミグラスソースと絡むと毎回「バリウマ」と叫んでしまう。 ☆☆☆☆☆☆☆ この様に他店では見られないブラジレイロオリジナルの洋食は1953年から入店し77歳まで勤め上げた熟練調理人の納家氏のアイデアによるものだそうだ。 ミンチカツ自体は昔から存在するがこのような形状になったはここ数年のこと。確かに以前は俵型だったし中身は牛と豚の合挽きミンチだった。このように伝統の味を守りながらも新しいスタイルも取り入れ時代の変化に対応していく姿勢がブラジレイロが長年の間、福博の人々に愛され続ける理由である。 最後に今回色々とお話を聞かせて下さったSukasakiさんの高校の大先輩である2代目の奥様に感謝を表したい。 #洋食 #ミンチカツ #喫茶店 #福岡市博多区 #福岡県