「僕らは食欲だけで繋がっている。逗子・立ち食い寿司処 いなせの巻」 「あっつ、つ、暑うてかなわんなぁ。連休前からこの陽射しは、いったいなんやねん」 「今からそんな弱音吐いてたら、真夏にウインドなんか出来やしないぜ」 アラフォーのIT経営者の男2人は、初夏の午後、JR逗子駅に降り立った。 小石川吾朗はパナマの帽子にフレンチリネンの上着、黒のストレートデニムで、男扇子をあおいでいる。 佐原利彦は、ぶかぶかのTシャツにダボッとしたショートパンツ、キャップを被り、足元はバッシュだ。 佐原が急にウインド(サーフィン)をやりたいと言い出し、それなら吾朗の知人がサーフショップをやっている逗子に行こうという話になったのだ。 「逗子は空いとるなぁ」 「鎌倉みたいに観光観光してないからな。地元の人しかいない感じが、いいよな」 「腹へったなぁ。朝から何も食べてないねん。何処ぞの居酒屋で一杯やってから行こうやないか」 「今から飲んだら海岸に行けなくなってしまうぜ」 「そやかて、こう腹がへっていては、そもそもたどり着けへんわ」 「立ち食い寿司屋が駅近くにあるみたいだよ」 お店は、逗子と新逗子駅の中間くらいのバス通り沿いにある。ガラガラと引き戸を開けると、板場には大将が1人、カウンターは最大で5人程度の小さな店である。メニューは黒板に書いてあるだけだ。立ち食い寿司というよりは、立ち食い割烹というタイプの店である。 先客の中年夫婦が貝のお造りを肴に、日本酒を飲んでいる。 「沖縄の酒ばっかりやなぁ」 「一品料理も島らっきょとかゴーヤのサラダとかだな」 「私の出身がいぜな島って、沖縄の離島なんですよ」 白のソフト帽を無造作に酒瓶に引っ掛けた大将は、意外に話し好きのようである。 「とりあえずビール、それとお造りを」 お造りが出来るまでの間、ブリの肝の煮付けを肴にビールを飲んだ。 「暑いとビールが美味くなるなぁ」 「今日は彼女、どないしてるんや」 「親戚の結婚式に出てる」 「言うことは言えたんか?」 吾朗と文代は、みなとみらいの橋の上にいた。 「なあ、文代・・・」と言いかけた次の瞬間、吾朗は橋の上で転んだ。というか、前のめりに倒れた。 「いたたた・・・」 膝を強打したらしい。吾朗は膝を抱えて蹲ってしまった。 5分くらいたって、少し痛みが和らいだので目を開けた。目の前に、文代の心配そうな顔が見えた時、吾朗は笑いが止まらなくなった。 (そうだったんだ・・・) 「どうしたのよ」 「あは、ははは・・文代、じゃない、文代さん。 俺はやっと分かったんだ。今まで俺が1人で生きて来た意味が。それは、文代さん。貴女に会うためだったのです」 「ふぅん・・・」 きんめ、まぐろ、ぶり、こはだ、えび、花 の豪華なお造りを食べながら佐原はビールを一口飲んだ。ここは、醤油の代わりに塩とワサビで食べさせる。塩も沖縄の天塩ということだ。 「変わってるけど、まあプロポーズとしては上出来やないか」 「プロポーズ?」 「夏目漱石の「それから」みたいやな。僕の人生には貴女が必要だ。だったかな」 2人は大将の出身地の泡盛「いぜな島」をロックで飲んだ。沖縄の透明な海を思わせる、深い味わいの泡盛である。 「新鮮で肉厚な刺身やな。ちょいとご飯が食べたくなったわ。いなせ巻を下さい、それと〆鯖」 「プロポーズってほどのつもりじゃなかったんだよ」 いなせ巻には、鮪と島らっきょの茎が巻かれている。 「ただ文代とはちゃんと、真面目に付き合おうっていう意味だったんだ」 「〆鯖も上品に締まってるわなぁ。いかにも逗子って感じや・・・お前、そんな甘いこと言ってたらまた麻里リンの二の舞になるで」 続く